母に捧げるエッセイ

息子からお母さんへ感謝のメッセージ!

立派な家を建ててくれてありがとう

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「お父さん。
家から追い出してしまってごめん」

まさか、立て続けに父と母が認知症
診断を受けるとは思いませんでした。

姉とW介護を頑張りましたが
やっぱり大変で、仕方なく父には、
施設に入ってもらいました。
本当に申し訳なく思っています。

流行り病が収まったら
母と一緒に父に会いに行こうと思った矢先、
施設から父の体調が悪いと連絡がありました。
病院で検査を受けた結果、末期がんでした。

もういよいよという時。
姉と脳梗塞で右半身麻痺になった母を連れて
父のお見舞いに行きました。

ベッドで寝ている父と
車椅子に乗っている母は、手を握り合い
父は母の顔を見つめ、
母は泣きじゃくっていました。

あんなに喧嘩ばかりしていたのに
やっぱり夫婦だったんですね。
母に会えて安心したのかなぁ。
すぐに逝ってしまいました。

母の介護は大変だったけど
父が建ててくれた家で
介護を頑張ることができました。
本当に父のおかげです。

今、母は入院しています。
体の状態からし
もう家に戻ることはありません。

でも、まだまだ母には、
父の分まで長生きしてもらって
私は親孝行したいと思っています。

「お父さん。
立派な家を建ててくれてありがとう」

朝ドラに出たでぇ!

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安定した収入が得られる仕事に
就いてほしいと思うのが
親心というものなんでしょう。

以前、私は俳優をしていました。
最初は劇団に入り、舞台を中心に活動。

劇団からは給料が出ないので
派遣の仕事をしながら活動をしていました。

ただ、収入が不安定で
将来の見通しが立たない私を
母はよく思っていませんでした。

だから、母からはよく
「そんなことより就職は?」
と聞かれるので、いつも私は、
「うん・・・」と口ごもっているばかり。

こういう話は、
よくあることなのかもしれません。

安定した収入で生活をしてほしいと思う親と
自分の好きなことをして
生きていきたいと思う子供との人生観の違い。

当時の私も
「母が望むように安定した仕事に就けば、
将来の経済的な不安は解消される」
ということは重々承知。

でも、私は「一度きりの人生だから
後悔しないようにやりたいことをやる」
という思いが強かった。

しかし、やりたいことをやったものの
劇団での活動がマンネリ化し、
モチベーションが下がった私は、
劇団を退団してしまいました。

それでも、夢を諦めることなく、
今度はプロダクションに所属をして
ドラマに出演することを目指します。

いくつか目指す理由がある中で
母がドラマ好きである
ということもありました。

もし、有名な作品に出ることができれば、
ドラマ好きの母が喜んでくれるかもしれない。

私はレッスンに励み、
いつチャンスが来てもいいように
演技力を磨きました。

そして、ついにチャンスは訪れます。
エキストラではありますが
あのNHK朝ドラに出演することが決定!

撮影当日、NHKへ。
控え室でスタッフから撮影の説明を受け、
衣装もメイクもバッチリ!

リハーサルが行われるということで
スタジオへ行くと本物の建物のように
しっかりしたセットに感動。

そして、主演の女優さんをはじめ
出演する有名な俳優さんがスタジオ入り。
挨拶をしながら
「テレビと一緒やぁ〜」とまたまた感動。

リハーサルが終わり、いよいよ本番。
私は、関東大震災で大阪へ避難してきた役。

最初の出番は、ケガをしていて
病院の待合室で座っているシーン。
次は、避難所でおにぎりを頬張るシーン。
どちらもアップで映っています。

それから数シーンに出演し、
その日の撮影は終了。

母には、放送前日に
「朝ドラに出たでぇ!
明日、放送されるから観てやぁ」
と伝えると驚いていました。

放送当日。私は仕事だったので
DVDに録画して観ることにしましたが
母はリアルタイムで観てくれたみたいです。

そして、私が帰宅するなり、
「映ってたやんか!」と喜んでいて
「おにぎり美味しかった?」
「○○ちゃん(主演女優さん)綺麗やった?」
とドラマ好きの母は、嬉しそうに質問責め。

私が俳優活動をしているのを
よく思っていなかった母の見事な手のひら返し!
私は「テレビって凄いなぁ」と感心しました。

それから、私は、
ドラマや映画に20本程出演しましたが
俳優で食べていくことが難しく、
夢を諦めることにしました。

ただ、朝ドラに出た時に
母が喜んでくれたことが
私にとって一番嬉しかった出来事。
本当に一生の思い出になりました。

その後、母は認知症失語症
脳梗塞で右半身麻痺になってしまい、
私が介護をすることになります。

母の介護は大変でしたが
私が俳優の夢を追いかけることができたのは、
間違いなく母のおかげ。
恩返しの気持ちで介護を頑張りました。

現在、母は入院しています。
私は面会に行くといつも
「お母さん。ありがとう」
と感謝の気持ちを伝えています。

夢を追いかけ始めた頃は、
親や周りから理解されず
孤独を感じることが多い。

でも、続けていれば、
必ず、周りが協力してくれたり
反対していた親も応援してくれます。

だから、夢に向かって頑張っている人は、
自分が納得するまで夢を追いかけてほしい。

頑張れ!ドリーマー!

思いやりに満ちた母

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私が高校3年の冬。
早朝、目が覚めると
家が激しく揺れています。

私は「ワァッ!ワァッ!」と叫びながら
ベッドにしがみつき、耐えました。
やがて、揺れが収まり
停電で真っ暗な中、台所へ。

家族が集まり、懐中電灯と石油ストーブを付け、
ラジオから流れるニュースに耳を傾けました。

アナウンサーが
近畿地方で大きな地震がありました。
未確認情報ですが神戸が震度7
と聴いて、家族全員びっくり。

1995年に起きた阪神淡路大震災です。

私が住んでいる地域は、被害が少なかったものの
残念ながら、神戸を中心に阪神間と淡路島などで
多くの方が犠牲になり、被災されました。

それから数日後。
母がパートから帰ってくると
「今日、被災してる子が家に来るから」
ということで、夜に同僚が我が家へ。

お風呂に入ってもらい、
こたつで鍋を食べてもらいました。
母は、避難所にいる家族のためにと
果物やお菓子が入った袋を持たせて
同僚は母にお礼を言い、帰って行きました。

母が「お風呂に入るのも
あったかい物を食べるのも
久しぶりって言ってわぁ」
と心配した表情で話していて
私は避難所生活の大変さを知りました。

その数日後、母はパート仲間と
被災している同僚が住んでいる地域へ
ボランティア活動に参加。

私は母から
「困った人がいたら助ける」
ということを教えられました。
本当に思いやりに満ちた母です。

2024年の元日、石川県で
大きな地震が起きました。

私は母のように
ボランティア活動はできませんが
被災されている方々の役に立てればと
寄付をさせてもらいました。
一日も早い復興を願っています。

おいしいお弁当のお返し

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お腹がグゥ〜グゥ〜と鳴る。
私は学生時代、
母が作ってくれたお弁当を
食べるのが楽しみでした。

母はパートで働いていて
朝早起きをして、私と姉のお弁当と
家族の朝ごはんを作り、
ごはんを食べ終わると父を送り出して
家事を済ませてから仕事に行きます。

そんな忙しい母でしたが
毎日、私たちのために
おいしいお弁当を作ってくれました。

キーンコーンカーンコーンと
チャイムが鳴り、待望のお昼休み。
机の上にお弁当を置くと香ばしい匂い。

「今日のおかずは何かなぁ」
とワクワクしながら
蓋を開けるとぎっしり詰まったご飯と
色とりどりのおかずがお目見えします。

敷いたレタスの上に
ポテトサラダとプチトマト、
ウィンナーと卵焼きが寄り添い、
銀紙に包まれたミートボールもあって
栄養バランスがよく華やか。

私は感謝の気持ちを込めて、手を合わせ
「いただきま〜す!」と言って
母の愛情たっぷりのお弁当をがっつく。
喉に詰まりそうになると
お茶で流し込みながらがっつく。
食べ盛りの私は、あっという間に完食。

お腹いっぱいになり、
そのまま机に顔を伏せてお昼寝タイム。
いびきをかいてグゥ〜グゥ〜。

それから30年が経ち、
私は認知症失語症
脳梗塞で右半身麻痺になった
母の介護をすることになりました。

母のデイサービスが休みの日、
私はお昼ごはんの買い出しに
スーパーへ出かけます。

途中、母校の前を通った時、
「お母さんが作ってくれたお弁当
おいしかったなぁ」
と学生時代を思い出しました。

帰宅した私は、車椅子の上で
ゆっくりとテレビを観ている母に
「お昼ごはん作るでぇ〜」
と言うと母のお腹が
グゥ〜グゥ〜と鳴ります。

さっそくウィンナーを焼き、
次に卵焼きを焼こうと
容器に卵と少量のしょうゆを入れて
かき混ぜ、フライパンへ流し込みます。

私は母ように料理がうまくないので
卵焼きを作るつもりが
スクランブルエッグになってしまいました。

お皿にレタスを敷き、
焼いたウィンナーとなんちゃって卵焼き、
レンジでチンをしたミートボールをのせて
買ってきたポテトサラダと
プチトマトも添えます。

母は脳梗塞の影響で、飲み込む力が弱く
食べやすくするためにおかずを細かく切り、
あとは、お茶碗におかゆをよそい完成です。

「ごはん食べよかぁ〜」と声をかけて
お昼ごはんを机に置くと前のめりになる母は、
利き腕が麻痺しているので、私が介助をします。

スプーンで食べ物を口の中に入れると
モグモグしてゆっくりと飲み込む。
母は、その度に私の顔を見ます。
話すことができないので
「おいしい」という気持ちを
伝えたいのかもしれません。

途中、喉が詰まらないように
とろみを付けたお茶を飲ませながら
ゆっくりと食事を楽しみ完食。

後片付けを済ませた私は、
母の所へ行くと車椅子の上でウトウト。

母の気持ちよさそうな顔を見て
「これで、おいしいお弁当のお返しが
できたなぁ」と嬉しく思いました。

そのうちに母は、いびきをかいて
お昼寝タイム。グゥ〜グゥ〜。

親孝行は日々の生活にあり!

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「帰りに発泡酒買ってきて〜」

まだガラケーが主流だった頃、
私の仕事が終わる時間を見計らい
母が私の携帯に電話をしてきます。

私は寄り道をせずに母から頼まれた
発泡酒・350mlを2本を買って帰宅。
私が玄関のドアを開けると
母が満面の笑みで出迎えくれます。

父と姉は、仕事で帰りが遅く
母と二人きりでの食事。
私は、家ではお酒を飲まないので
母一人晩酌です。

母は、さっそく「プッシュ!」と
発泡酒をコップに注ぎ、ひと口。
「あ〜幸せ〜」と言わなくても
母の表情で心の中がわかります。

我が家は、野球のシーズンになると
テレビで阪神戦を観ながら
食事をします。

当時の阪神は暗黒時代。
黙々とごはんを食べている私に
「あかんなぁ。点入らんなぁ」
と母が文句を言うと
私が「う〜ん。チャンスに弱いなぁ」
と返します。

ほろ酔いの母は、
不甲斐ない阪神の選手に呆れ顔で
煮魚を食べ、発泡酒をグイグイ。
酒の肴は、
"煮魚と弱い阪神の愚痴"
といったところ。

私が食べ終わっても
まだチビチビ発泡酒を飲む母。
時計を見て
「お姉ちゃん、遅いやん。
お父さんは、ええけど」
と帰りの遅い姉を心配しつつ
冷蔵庫から肴になりそうな物を取り出し
また発泡酒をチビチビ。

そうこうしているうちに玄関から
「ただいま〜」と姉が帰宅。

母がニコニコしながら姉に
「何か(肴)買ってないの?」
と期待を込めて聞きますが
姉は冷たく「ない!」と答えます。

母はしょんぼりして
姉のお茶碗にごはんをよそい
ついでに自分のお茶碗にも
ごはんをよそい
バリバリと漬物でごはんを食べて
母の食事は終了。

毎日、発泡酒を飲みながら
「あーだこーだ」と言っている母は、
なんだかんだ言って楽しそうでした。

私は、母の誕生日や母の日に
バッグやアクセサリーを
プレゼントすることも
ありませんでした。

ただ、そんな特別な日に
特別なプレゼントよりも
毎日、発泡酒を買って帰ることが
母の一番の喜び。

親孝行というのは、
日々の生活の中で
ちょっとした喜びを
与えることだ思います。

母のぬくもり

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寒い冬の朝、起きる時に
「あぁ〜布団から出たくな〜い」と
いい歳した大人が
子供のように駄々をこねてしまう。
困ったものです。

私は小さい頃、冬休みの朝。
隣で寝ている母が起きた後の布団に
潜り込んで眠るのが好きでした。

布団に入ると
フワァ〜っと母のぬくもりに包まれ
遠くのほうで
トントンとまな板の音を聞きながら
いつの間にか、夢を見ている。
至福のひとときです。

あれから40年が経ち、
そんなことをすっかり忘れていた私が
母を介護することになりました。

母は脳梗塞で右半身麻痺。
毎朝、ベッドから母の体を起こし、
抱きかかえて、車椅子へ移乗します。

ある寒い冬の日。
いつものように移乗しようと
母を抱きかかえた時、
「お母さんって、
めちゃくちゃあたたかい」
と感じた私は、
「そういえば、小さい頃。
お母さんの布団で眠るのが
好きだったなぁ」
と当時のことを思い出しました。

40年も経っているのに
母のぬくもりが蘇った瞬間です。

人間は、不思議なもので
小さい頃の体験は、
何十年経っても、記憶に残っています。
そして、ふとした瞬間に思い出す。
人間の体と心の記憶力は凄いですね。

だから、寒い冬の日に
なかなか布団から出られないのは、
母親のぬくもりがいつまでも
体と心に深く記憶されていて
母親から離れるのを拒否している。
それは、母親の胎内からの
記憶かもしれません。

そう思うと、布団から
「オギャー!オギャー!」
と泣いて出るのがいいのかもしれない。

私たちは、それだけ
母親から愛情という
ぬくもりを注いでもらい、
それを充分に受け取り生まれ、
人間として成長し、
生きているということだと思います。

介護をしている時に
そういうことを
思い出したということは、
「母親から注がれた愛情を思い出せ!」
という、神様からのメッセージ
なのかもしれません。

私は毎晩、布団に入ると
「お母さんありがとう」
と心の中で唱えて
ぬくもりを感じながら感謝して寝ます。

そうすると、子供の頃に感じた
安心感に包まれ
ぐっすりと眠れるんです。

でも、朝起きる時に
「あぁ〜布団から出たくな〜い」と
子供のように駄々をこねてしまう。
困ったものです。

レシピは母の背中

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私が小さい頃、風邪を引いた時、
母がおかゆを作ってくれたことを
今でもよく思い出します。

熱が出ている私は、
自力で食べることができず、
母が熱々のおかゆをフーフーして
食べさせてくれました。

あのとろーりとしたおかゆは、
母の優しさが詰まっている。
シンプルな料理だけど
私は、最高のおふくろの味だと
思っています。

あれから40年が経ち、
私は、認知症失語症脳梗塞
右半身麻痺になった母の介護を
することになりました。

脳梗塞の影響で、飲み込む力が弱く
柔らかい物しか
食べられなくなった母には、
おかゆが一番!」
ということで、人生で初めて
おかゆを作ることにしました。

レシピは、
おかゆを作っている"母の背中"です。

私は、せっせと動いている母を
思い出しながら
鍋に適当な量の水とご飯を入れ
弱火でグツグツと炊きました。

途中、水を足し、
「これでええんかな?」
とブツブツ言いながら
かき混ぜているといつの間にか
おかゆらしくなっている。

30分程経ち、
とろーりとしてきたので
「もうええやろ〜」
と味見をしてみると
「あっ!懐かしい!」
と小さい頃を思い出しました。
さっそく、私はおかゆを母の所へ。

利き腕が麻痺をしている母は、
自力で食べられず、
私が熱々のおかゆ
フーフーして食べさせます。

ひと口食べた母は、
「ウェ〜ン」と泣き出しました。
言葉を発することができない母から
感想を聞くことはできません。
でも、母の表情を見ただけで
わかりました。

そして、あっという間に
お茶碗いっぱいのおかゆをペロリ。

私は、お茶を飲ませながら
満足そうな顔をしている母を見ていて
おかゆひとつで
「こんなにも愛情が伝わるんだ」
と感動していました。

「子供は親の背中を見て育つ」
と言いますが、本当にその通りです。
言葉はなくても心は通じます。